気晴らしのススメ

男60歳が、書くことで気晴らしと記録を。そして読んでくださる方のささやかな気晴らしにもなればと。

身近にあるもの……

sinsing です。

いろいろあって半年間ブログを休憩していました。

なんとなくずっと「死」が近くにあり……。

4月、12年間も共にいた飼い猫がリンパ腫であることが判明。2ヶ月の闘病の末、亡くなった。
直後、もう一匹の飼い猫が眼球摘出手術。


4月末、 義理のおばが逝去。いつも穏やかな笑みをたたえる素敵な女性だった。
6月上旬、義理の父が逝去。農家として力の限り働き続けた86年だった。私たち夫婦をいつも支えてくれた。

その間、有名人の死亡もニュースに。
2月1日 石原慎太郎、すい臓がん(89歳)。尊敬する政治家。奔放な、自信に満ちた生き方にあこがれていた。
5月1日 慶応大教授(国際政治学中山俊宏氏(55歳)、くも膜下出血のため死去。政治解説が鋭く、応援していた。
5月3日 俳優、渡辺裕之(享年66歳)自死。妻である女優 原日出子を俺は好きだった。
5月11日 ダチョウ倶楽部上島竜兵(61)自死。自虐タレントの領域を切り開き、昔から笑わせてもらっていた。

小・中学からの友人3人の死も。
一緒に野球をした活発なM、いじめっ子だったF、照れ屋でひょうきんなY。みんな病死だったか。

自分自身も、6月に届いた人間ドックの結果が酷かった。あれだけ健康に留意した生活を続け、運動も続けていたのに……。
あらがっても無駄なのか。

死が身近にあった。
生きていることは偶然なのか?
生きることを楽しむとはどういうことなのか?
そのときはいつ来るのか?

生をかたちとして残すため、本の制作をはじめた。秋までに1冊を出版予定。

お盆が終わり3人の子どもたちもそれぞれの生活に戻っていった。そして亡き父母をふたたび彼岸に見送った。
今日からヒンヤリする空気を感じはじめた。虫も鳴いている。秋の気配。
何を思おうが季節はすすむ。

二人の正義と侏儒の声

sinsingです。
年末から正月にかけて子供たちが帰省。家族全員がそろうのは2年ぶり。
悩みは抱えながらもそれぞれ一生懸命やっているようだ。親は見守って、たまに声をかけてあげるだけが良いようだ。
 
2022年がはじまった。一年の計は元旦にあり。
なんの計画も目標も掲げなかったわたしの令和4年に大きな発展はなさそうだ。

ただ、小さな勇気は忘れないでいたい、と思う。
 

思いだすこと

ふとしたときに脳裏をかすめる、若き日の、苦い、二つの出来事がある。
 
ひとつは1980年ころの東京。大学1年生のことだったろうか。
当時の国鉄中央線、なぜかそのとき私は市ヶ谷駅のホームにいた。
電車待ちをしていると、背の高い年上の白人女性が近づいてきて、●●●駅にはどうやったら行けるか? と英語で尋ねてきた。
英語は理解出来た。だが東京新参者のわたしには、その駅への行き方がよく分からなかった。
そのうえ、ALTも居なかったその時代、外国人と話した経験もなかった。
逃げたくなった。
I don't know.  I'm sorry. 
とわたしは言い捨て背を向けると、彼女はホームを去って行った。
高校・大学と英語は得意教科だった。
 
もうひとつもやはり東京。1984年ころ。大学4年だったろうか。
大学のサークルメンバー9人で飲んでいた。東急東横線沿線の大きめのバーだったと思う。
しばらくすると突然、近くで飲んでいたらしい背はとても低いがガッチリした一人の大学生が
「俺は東工大の学生だ。おまえたちが気に入らない」と言いながらテーブルに割り込んできた。
するとこっちの仲間のA君(身体も大きくなく、運動も苦手)が
「なんだよ邪魔するなよ」みたいなことをその男に言うと、
間髪入れず、そいつはA君の頬をガツンと一発殴った。
A君は、「何するんだよ、痛いじゃないか」と頬を押さえた。
男は去って行った。
A君は頬を押さえ、あとの8人は「ひでぇヤツだなぁ」などと口ごもるだけで、ただ眺めていた。
わたしたち9人は野球サークルの仲間で、スポーツを愛していた。
 

二人の男と正義

○ 2022年1月23日お昼頃、JR宇都宮線の車内で、シートに寝転びながらタバコを吸っている若者を注意した高校2年の男子高校生が暴行され、さらに駅のホームでも土下座、暴行され、右の頬を骨折させるなどの重傷を負った。
 男子高校生は同級生と4人でいて、容疑者に「たばこやめてくれませんか」と注意し、容疑者が顔を近づけてきたので押したところ、10分以上殴る蹴るの暴行を受けたという。
周りには多くの乗客がいた。
 
○ 2022年1月24日まで、中国の最高学府である北京大学のもと教授 鄭也夫(ていやふ)(71歳)が、SNSを通じて声明を公表していた。
中国による台湾への軍事的威嚇は平和的な統一を遠ざけ、米国を巻き込んだ核保有国同士の戦争さえ招きかねない、と武力による台湾統一に反対したのだ。また反戦世論を形成する重要性も説いた。
中国内の知識人が、台湾政策に公然と異議を唱えるのは異例だった。
鄭さんは、いまどうなっているのだろう。
 
正義
たったの二文字。
目を覆いたくなる出来事がはびこる地上で、この二文字のある世界はいまやユートピアである。
このユートピアに少しでも近づくには、
勇気
この二文字も不可欠になる。
正義の心や良識をもつ人は多いが、変化のためには行動する勇気が必要だからだ。
 
しかしこの勇気を発揮すると、それは時として
蛮勇
となってしまいかねない。

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正義にもとづく勇気ある行動を蛮勇にさせないためには……。
●その行動に賛同する100人の小さな声があれば、それは一人の勇気ある行動に匹敵する。
●1万人の小さな声があれば、100人の勇気ある行動に等しくなる。
●同じ方向に向かう100人の勇気ある行動が集まれば、社会に変化が起きる……。
が必要なんだと思う。 

つまるところ要諦は、わたしたち侏儒の一声なのである。 ※侏儒(しゅじゅ)=こびと
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40年前の白人女性とA君は、あのときの事を思い出すことがあるだろうか…。

今年は寅年。わたしは年男。還暦を迎える。
虎のように強くはないが、せめて侏儒の一声をあげる勇気をもてるようになりたい。

成功中の健康法-温冷浴とニンニク-

sinsing です。

今日は12月初旬。日本海側の冬がやってきました。山の上部は雪化粧しています。
外出や運動がままならない冬、わたしのみならず「健康」が気になる方も多いのではないでしょうか。

作家の佐藤愛子さんは、エッセイ「なりゆき任せ」で、

「自分を自然に委せきること、この「自然」を「神」と考えてもらってもいい。未練執着を捨て迷わずに自然の意思に添うためには、健康法は邪魔なばかりなのである。」

と書いています。人はいつかは病み衰えて死ぬものだ、どんな健康法も意味ないよ、と。
これを書いたとき佐藤さんは64歳。現在はなんと98歳でいまだ現役。
「なりゆき任せ」の生き方と覚悟は佐藤さんにとって正解だったのでしょうね。

そうは言っても、そこまでの境地に至らない凡人のわたし……

健康の「ここ」が気になっている

この冬を迎えるに当たって、わたしにはちょっとした健康上の怖さがありました。
なにかというと「血流」! です。
すでに夏の終わり秋の始まりころから、はやばやと足が冷え靴下をはき始めていました。
指も冷えていました。
明らかに血流が悪くなっているな、と。
ウォーキングなどの運動はあいかわらず継続していたにもかかわらず、です。

血流はわたしにとっては一大事。これから迎える冬、いったいどうしたらいいんだろう…と。

わたしは40歳のころ、腎臓の病気をしました。それ以来クレアチニンやeGFRの数値が年齢とともに悪化しています。
腎臓は血のかたまり。血液の流れのなかで老廃物を濾過しています。よって血流は腎臓にとって生命線なのです。
そしていま、加齢が血流の悪化を加速させています。血糖値の高さも血管・血液に悪さをしています。
加えてわたしは喫煙者です。よって、もともと血流が悪い。


血流の悪化は、わたしの病める腎臓に大きなダメージを与えるのです。
禁煙すればいいじゃないかと言われるでしょうが、40年もの習慣とささやかな愉しみを捨てる勇気はありません(ワガママ)。

この秋から冬、どうにかして血流を改善をしなくちゃならん、と思っていたのです。

 

2つの実践

そこで2つのことを実行してみました。
その結果、明らかに改善したのです!

実行したことは2つ。
1 温冷入浴法(温冷浴)を実行する
2 ニンニクを食べる  です。

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足を入れるバケツとニンニク

始めて1ヶ月後から変化が……。
・手指はいつもポカポカ感があり、血が巡っている実感があります。
・足は、気候がずっと寒くなったにもかかわらず靴下を脱ぐ時間帯さえあります。
・就寝中、からだが温かい。夜具を重ねることもなく、いつもなら使う電気毛布もいまだに不要。
・パルスオキシメーターのPI値(指の血流量がわかる)が上がった。
と、変化があったのです。

 

具体的にどのように実行しているかというと……

1の温冷浴は……

1の温冷浴は…
以前、温泉に日帰り入浴に行っていた頃、湯冷めをしない方法として温冷浴をしていたことを思い出し家で実践することにしたのです。
家で毎日できないと意味がないですからね。

髪や体を洗ってから40度の湯船に入る(数分間) 
→40㎝程度の深めのバケツに水を満たし、椅子にすわったまま、足を入れる(ふくらはぎ上部まで浸す)。そして手も、できれば手首まで入れる(1~2分) 
→湯船に入る(数分間)
→2度目のバケツ冷浴(1~2分)
→湯船に入る(数分間)
→3度目のバケツ冷浴(1分) →湯船には入らず入浴終了。

わたしの場合はこのように 温→冷→温→冷→温→冷 と3セットで上がります。

温冷浴の効能は、「 温かいお湯に浸かることによる『血管の拡張作用』と、冷たい水に触れることによる『血管の収縮作用』。この血管の拡張と収縮を繰り返すことで、血流がよくなり、体内に発生した疲労物質の減少をもたらす」とのこと。
くわえて、わたしには心地よさがあります。水に浸しているときの気持ちよい冷たさと、湯船に入り直したときのジンジンくるような温かさの感触。風呂上がりの爽快感も違う気がします。(温冷浴の最後は冷浴で終わるのが良いらしいです)


ネット情報ではシャワーを使うことの方が多いようですが、手足だけでも良いと書かれているページもあるのでわたしはバケツにしています。
参照ページ↓
https://news.mynavi.jp/article/20181121-728163/

 

2のニンニクは……

2 ニンニクは…
スーパーに売っている にんにくの醤油漬けパック(20片くらい入っている)を食べる。
→1日合計3片を目安に食事中に食べる。

ニンニクの効能はすごいですね。このサイトでは10個の効能を挙げています。
基本的には代謝を高めて全身の血行を良くすることにあるようです。
https://www.tenpo.biz/tentsu/consumer/cate_health/2020-10-08-100000#i-5
一日4片までが適切と書いてあるページがほとんどなので、私は3片にしています。

 

以上、わたしの実践紹介でした。

実は、この実践にはおおきな副産物もあったのです。

それは妻の健康状態です。
妻(60歳)はずっと高血圧で。この秋に入る頃から上が140を越え続けていました(毎朝測定しています)。
水分を多めに摂ったり、塩分を控えめにしたり、運動もときどきしてはいたのです。でも下がりませんでした。
わたしの血流の効果を知って、妻も晩秋から上記2つを実行しはじめました。
すると見事に1ヶ月後、血圧が……。毎朝 140を着実に下回るようになったのです!

 

わたしも妻も、温冷浴とニンニクのどちらがより効果的だったのかは分かりません。
しかし効果を実感しているので、これからも続けるつもりでいます。

(※ただし改善されないことが1つ。それは右の人差し指です。この指だけは昨年から冷えがひどく、ちょっとでも冷たい物に触れたり冷気に当たると冷たくなり、感覚がなくなるのです。いま他の指はポカポカですが、この指だけはいまだ改善しません。)


これから真冬を迎えます。
この健康法の後日談があればまたブログしますね。

退職したら、生活上の優先順位1位が「健康」になってしまいました…。

飛ぶ夢 -時間を飛ぶ-(2)

sinsingです。

山田太一の小説『飛ぶ夢をしばらく見ない』の主人公は、時間を飛んだ。
前回同様、今回もわたしは沢木耕太郎のエッセイ集 『チェーン・スモーキング』の力を借りて、再び時間を飛びたい…。(前回は母の記憶に飛びました)

親孝行は済んでいる -生きる理由-

沢木耕太郎は、タクシー運転手の話をきっかけに、「塀の中の懲りない面々」の一節に引用する。(『チェーン・スモーキング』単行本68-71p)

 

「あのな、親孝行なんてことも、しないだっていいということさえ、誰も知らんのだ。
 親孝行なんて、誰でもとっくに一生の分が充分すんでいるのに、誰も知りもしない。
 誰でも、生まれたときから五つの年齢までの、あの可愛らしさで、たっぷり一生分の親孝行はすんでいるのさ、五つまでの可愛さでな

 

わたしsinsing もすでに独立した3人の子供たちに思いを馳せる。

3人が家を巣立つまでの子育ては簡単なことではなかった気がする。”親は背中で教育”、なぞともいうが、そんなに立派な背中をわたしは持ち合わせていない。
当時はさほど意識はしなかったが、たしかに子育てにも生活にも奮闘していた
だが当時の奮闘の対価はちゃんと子供たちから返してもらってる気がする。

なぜなら、わたしの「いまを生きる理由」が簡単なもの-「子供と妻が生きているから」-になっているからだ。

あまりに簡単で、それ以外に思いつくことはできないほどだ。
だから、さきに引用した一節はある意味正しい。
親孝行なんかいらないよ、きみたちが生きてくれてるだけでいいんだから。とわたしには思える。

でも忘れてしまうんだ

しかし「五つまでの可愛さで親孝行がすんでいる」、と言えるかどうか。

もちろん可愛かったさ。3人とも。
でも、こうも言うだろ? ” どんな辛い失恋や死の経験も、その苦しみは時間が癒やす” と。時間がすべてを流してくれるんだって。

とすると、可愛かった子供たちの記憶も薄らいでいく、ということになる。
実際そうなんだ。この世でもっとも芳(かぐわ)しい赤ちゃんの匂い。やわらかな肌。子ども時代の天真爛漫な笑顔と声。その子独特のちょっとしたクセや仕草。共有したはずの幸せな場面の数々…。

それらは時間とともに遠くにいってしまう
薄らぐことを予期してたくさん撮っておいた大量の写真やビデオ。だがそれは二次的なものにすぎない。本物の実感としてのそれはもう手に入らない。戻ってこない。

孫が可愛い、というのは疑似体験できるからなのだろうね。あのときが戻ってきたと。
だが孫を抱いても、3人の実感は取り戻せない。
だからわたしは昔の写真やビデオを見返せないでいる。戻れないという事実の怖さに直面したくないから。

だから、飛ぶ夢

時間を飛びたい。飛び越えてもう一度実感したい。もう一度触れたい。あの可愛らしさに。
そしてなによりも、可愛がってあげたい。自分の持てるすべての時間と力で、3人それぞれの子を可愛がってあげたい。

そのころは可愛がっていると思っていた。
だが、その可愛らしさに応えるだけの愛情を注ぎ続けていたと言えるか、俺は。
様々な後悔がよみがえってしまうんだ。

だから…

過去の時間へ飛ぶ力をください。そして10日間をください。
そしたら3人の子を思いきり可愛がってあげたい。その可愛らしさへの恩返しをしてあげたい。

子供たちよ、生きてくれてるだけで親孝行は済んでるよ。
ただ、俺からの子供孝行がまだだったんだ。もっともっと出来たはずの子供孝行が。

 

みなさんはこんなふうに時間を飛びたくなりませんか?
小さなお子さんをお持ちの方は、たくさんたくさん可愛がってあげてください。後悔を残さぬよう。すべての記憶は薄らぐものだから……。

飛ぶ夢 -時間を飛ぶ-(1)

sinsingです。

前回のブログで、

エッセイは、
・短い中で、深い知識や鋭い見識の披瀝もあり。
・短い中で、見事な構成をこらしたものを見つけることもある。思わず感嘆してしまうような上手さ。
・短い中で、本当にそんなことあったの?と驚かされるようなこともたびたび。
そして何より、エッセイは、ときに私の過去や、私そのものにコミットする…。

と書いた。

沢木耕太郎 のなかに 山田太一が…

沢木耕太郎のエッセイが好きだ。まだ多くは読んでない気もするが、生き方や考え方において、沢木はあこがれの人でもある。
最近、彼のエッセイ集 「チェーン・スモーキング」を読んだ。1990年刊 沢木43歳ころの著作だ。
部分において、彼のエッセイが「私の過去や、私そのものにコミット」した。

なぜ私そのものにコミットしたのか? 
第1編で沢木が、山田太一の小説『飛ぶ夢をしばらく見ないに言及したからである。
「おー、沢木よ、あなたも『飛ぶ夢……』を読んでいたのか!」と驚きを隠せなかった。

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左:「チェーン・スモーキング」沢木耕太郎著 1990年新潮社 単行本
右:「飛ぶ夢をしばらく見ない山田太一著 1985年新潮社 単行本


 山田太一沢木耕太郎は、もっとも好きな作家のなかの二人。その沢木が、山田太一作品中 私がもっとも好きな『飛ぶ夢をしばらく見ない』の一部を引用していたのだ。
 たとえは悪いが、当たった100万円の宝くじに、世界一周旅行が商品として付いてきたみたいな気分。

 『飛ぶ夢……』に出合ったのは20代の後半から30歳くらいの頃。引き込まれ、読むのを惜しみながら空想の世界を愉しんだ記憶がある。ノスタルジックな恋愛小説のような、空想小説のような…。
 その後もう一度読んだが、それ以来ながく触れていない。もったいないという気持ちと、自分という者が変化してしまい不感症になってはいまいかという怖れの気持ちからである。 まあ、それほど好きな作品なのです。

沢木は、『飛ぶ夢をしばらく見ない』のなかの以下の部分を引用した。

 ”とぶゆめ” をしばらくみない  
 といふはなしをしたら その夜 
 ひさしぶりに ”とぶゆめ” をみた    

いわゆるエピグラフ(書物の巻頭に置かれる短文)である。この山田太一の小説で、主人公の男はあり得ない世界に ”飛んだ” のだ。それとともに、30歳だった私も ”飛べた”。

 そして いま59歳のわたし。
 沢木のエッセイ「チェーン・スモーキング」で、わたしの心も再びさまざまに”飛ぶ”ことが出来た……。
 沢木の文章を借りながら、わたしも ”飛ぶ”。そのゆくえを書き残しておきたい。


母へ”飛ぶ” (レクイエム)

沢木によって、わたしの飛ぶ夢は ”” に向かった。

- 人は死んだらどうなるのだろう。ぼくは死んだらどうなるのだろう。死んでしまったら、家族と別れ別れになり、どこか知らない場所にいかなくてはならないに違いない。私にはそれが恐ろしくてたまらなかった。 - 
「チェーン・スモーキング」(単行本)9p.より引用

沢木が5、6歳の頃の恐怖心だったという。
これは、わたしが9、10歳の頃の恐怖心と同じであった。

 死んだら自分はどうなるのか、そしてそれ以上に、母が死んだらどうなるのだろう。自分のことをこれほどまでに愛し慈しんでくれている、隣で寝ている、この母が死んだらわたしはどうなるのだろう。悲しみの大きさを想像するとなかなか寝付けなかったことを沢木の文章で思いだした。
 母の死に対する恐怖はその時期のみのことだった。自分の死に対する恐怖はその後もつきまとっていたが。

 6年前、母は脳出血で突然に他界した。
 母親孝行をなにも出来なかったわたしは、せめて、「小学生の頃、母さんの死を心から恐怖していたんだ」と語っておけば良かった。大人になっても憎まれ口ばかりを吐き、反抗ばかりしていた自分が、それほどにあのころ母を好きだったということを、ひとこと伝えておけば良かった。とてもとても大切な人なんですと口に出しておけば良かった。
 すべてはもう遅い。

エッセイで沢木は次のような文章も使っている。登山家メスナーの書物のデディケーション(献辞)である。

- 神秘に充ち満ちた世界へ行かせてくれた わが母に捧ぐ - 
 前掲77p.より引用

 この有名登山家は書物を母親に捧げることができた。
 それにひきかえ、わたしが母に捧げたものは終生無かった。プレゼントひとつ、優しい言葉ひとつ、感謝の言葉ひとつ、なにも無かった。
 いつかは、と心の底ではおもってはいたが、認知症が進み始めた母を直視できず、会話もろくにかわさず、突然逝ってしまった。
 母の無償無私の愛のすべてを、わたしは無尽蔵にただただ受け続けただけだった。
(芥川の名作「杜子春」。 杜子春の両親は、地獄で鬼どもの鞭によって肉が裂け骨は砕けても、杜子春を守った。そんな愛を思い出してしまう。)

人生最大の後悔。

沢木によって、母への思いが千々(ちぢ)に蘇った。
そして ”飛びたい” と思う。 ほんのわずかな時間でいい。母のいた時間へ。
母に触れ、母に心からの感謝を伝えたい。

母さん、ゆるして。
(母の亡きあと、父とは一定の時間を共有することが出来た。だが父への後悔もつのるばかり。)

みなさんにはそんな後悔がありませんか? 時間を飛びたいと思いませんか?

そしてわたしは次の世界にふたたび飛ぶ……。

そして秋- エッセイなるもの

sinsingです。

夏から秋へ

わたしにとって夏というやつはやっかいな季節である
若い頃は良い。まさに命とエネルギーの発露の時間。神であるかのような全能感すら襲ってくる。その結果としての強烈な体験と歓喜の玉手箱のような時間。血が沸き立つような瞬間の連続だった。何をしていなくても勝手に血が騒いでいた。そして誰かがかならず近くに居て、競うかのように力の横溢した時間を共有していた。
 
だが還暦を迎えようとしている今、夏はやっかいな季節である。
外に出てはいけない季節、あまりエネルギーを使ったり動いたりしてはいけない季節、屋内をいかに涼しく快適な状況におくか常に目を配る季節、ものをよく考えられない季節。そして何より、若き日の夏の、したたる汗の感触を寂寥感のなかで回想させられる季節。
 
そのてん、還暦の秋はいい
庭仕事も運動もしやすい、本をじっくり読むのもいい、風も太陽も、どの時間の空気も心地よい。遠出もしたくなる…。
いろんなことが出来る気がしてしまう(実際はとりたてて何もしないで終わるのだが。そこが若き日の全能感と根本的に違う悲しさ)。
 

エッセイ -随筆なるもの

秋がきた……。 で、読書である。とりわけエッセイのこと。

エッセイの嚆矢
(こうし)はフランスの哲学者モンテーニュの書いた『エセー』(仏: Les Essais もしくは『随想録』)であり、個人的意見や感想を自由な形式で述べた散文-随筆(エッセイ)-の最初である。モンテーニュがこの形式を発明したと言われている。
発明などと言う語句が付くのは、「エッセイ(essai)」は「試み」を意味するフランス語で、もともと「随想」や「随筆」といった意味はなく、モンテーニュの『エセー』というタイトル自身が「試論」という意味で、本人にとっても実験的な著作だったらしいからである。

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モンテーニュ「エセ-(随想録)」1580年初版 表紙
ここ数年、エッセイを読むことにはまっている
20歳代は難解な哲学書も無理をしながら読んだりしたが、あきらかに長編小説が楽しく、これこそが文学と思っていた。最も長いもので言えば「ジャン・クリストフ」、「チボー家の人々」、「人生劇場」、「青春の門」などがあったろうか。小説のみならず様々なジャンルのものも含め、むさぼるようにして本と向き合っていたように思う。
30代になると、軽い小説へと変わった(仕事上の専門書も多くなった)。
40代、ガクッと読書量が減り、手っ取り早くなにかの解決や知識を求めるhow toものやノンフィクションが中心に。(唯一、司馬遼太郎は読んでいた)
 
そしていま50代後半
自分なりにまとめておきたい事象があるので歴史書は熟読しているが、楽しみとしてはもっぱらエッセイを読むだけになった。
作り物に嫌気がさしているからだろう。作家はフィクションによる創作を通して真実を描きたいのだろうが、私にとっては小説を読む時間が、作者の妄想の世界にひきずり込まれるだけの不毛な時間に思えてならなくなっているのだ。(小説こそが有益であり、気晴らしに最適さ、という御仁には申し訳ありません……)
それに引き替えエッセイは---書き手であるその人そのものがドッカと存在している。短い文章の中に、架空の人ではなくその人の自身の体験や感動、驚き、感想、その人のエッセンスが存在している。エッセイには書き手の事実があるのである。
 
・短い中で、深い知識や鋭い見識の披瀝もあり。
・短い中で、見事な構成をこらしたものを見つけることもある。思わず感嘆してしまうような上手さ。
・短い中で、本当にそんなことあったの?と驚かされるようなこともたびたび。
 
だからエッセイはやめられない。
そして何より、エッセイは、ときに私の過去や、私そのものにコミットする…。
 

7つがお気に入り……

いまのところ私のお気に入りのエッセイは、次の7者だろうか。
向田邦子 沢木耕太郎 山田太一 山村修 藤原正彦 司馬遼太郎 そして日本エッセイストクラブ編のベストエッセイ集
 
秋の夜長。
みなさんのお気に入りのエッセイストは誰ですか?
次回は、いま読んでいるエッセイから触発された自分の感情をゆっくりと書きとめてみたいと思います。
もちろんここまでの文章も、次回の文章も、「私のエッセイ」です。

3つのオリンピック

sinsing です。

東京オリンピックが終わり、暑すぎたこの夏も終わりました。
今日は8月下旬。昼はセミが鳴くが、夕方からは虫の音も。秋を感じる時間が増えてきました。
史上最低とも思えたオリンピック開会式は、ドタバタの日本をあまりに正確に表していました。ですが期間中、日本選手たちの活躍は見事でした。そのなかでもとくに印象に残った人々を振り返ってみたいと思います。

その1 ふたりの執念

 みなさんの記憶にも強烈に残ってませんか? ソフトボールアメリカの決勝戦での渥美万奈選手の超ファインプレー
 日本の2点リードで迎えた六回、一死一、二塁のピンチだった。この回途中から救援した後藤が、3番打者に強烈なライナーを浴びた。三遊間を抜けようかという打球は、三塁の山本がはじいたが、それを空中で遊撃の渥美万奈選手がとっさにキャッチ。間髪入れず二塁に送球し併殺に仕留めた。

 考える間もなくキャッチして投げたこのプレーこそ、月並みだが、日頃の鍛錬のたまもの。厳しい緊張感の中での反復練習なくしてなしえなかっただろう。

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左:宇津木妙子 前監督  右:宇津木麗華 現監督

 これを可能にしたのは-厳しい練習をさせ続けた-宇津木麗華監督その人。 
そしてこの監督を鍛え育てたのが宇津木妙子 前日本代表監督(オリンピック中継の解説者)である。
 厳しいことで有名な(とくに高速ノックは有名)宇津木妙子が、1988年中国で「任彦麗(にん・えんり)」(当時24歳)を見出し、猛反対する父親を説き伏せ日本に連れ帰った。日本名宇津木麗華を名乗ることとなった任彦麗を名実ともに日本の中心選手に育て上げた。その後監督の座を麗華に譲り、二人でいまの日本ソフトボール界をつくりあげた。
 宇津木妙子が1985年に現役引退しジュニア日本代表コーチに就任してから数えること36年。この二人の女性の、人生をソフトボールに賭けた執念が、決勝の渥美万奈のファインプレーを生み、金メダルを生んだのだ。あのコンマ数秒の奇跡のうらに30年あまりの血のにじむような二人の人生を感じた。

 

その2 ひとつを極める

 スポーツに限らず、なにか一つのことに専心し秀でている人には興味と魅力を感じる。一般的には職人とか専門家とか呼ばれる。いわゆる「極めた人」だ。
 職場でも、社会においても居ますよね、これはあの人に任せれば間違いない、これがやれるのはあの人しか居ない、ぱっと見は普通だけどあの人あれがすごいのよね、って人。他のことの能力はさておいても、一目置かれます。
 オリンピックのメダリストたちは多少の差はあれ、みんなそれぞれを「極めた人」であることは間違いない。

 今オリンピックにおいて、わたし的に「職人の中の職人」は柔道女子78キロ級金メダリスト 浜田尚里(しょうり)だ。

 寝技師として知られ、今大会も磨き上げた寝技で全4試合、オール一本勝ち。試合時間は合計でわずか7分42秒という圧勝。「寝技は自分を助けてくれる」。男女を通じて柔道で日本勢最年長金メダリストとなった30歳の遅咲き選手である。海外勢からはその寝技は“アリ地獄”として怖れられていたらしい。一度はまると抜け出せない、という意味だろう。
 寝技習得の原点は無名だった鹿児島南高時代にあった。地方高校が全国で勝つには寝技、と寝技に重点を置いた激しい練習量をこなした。「覚えは悪かったけど、弱音を吐かずにコツコツ亀のように覚えるまでやっていた」と高校の恩師は述懐している。
 大学では寝技を必殺技にまで極めた。「寝技、関節技が『うまい』選手はいるが、浜田は『怖い』。怖いと思わせる選手は見たことがない」と評する関係者もいた。また学生時代は、後輩が恐怖で稽古の相手を嫌がったこともあった。


 寝技は「地味」である。立ち技のような一瞬の一本という柔道の醍醐味はない。花形である立ち技で勝てない選手が、自分の生きる道として習得していった寝技。じわりじわりと真綿で首を絞めるように相手を追い込み押さえ込む、あるいは関節技でギブアップさせる。
 その要諦はなんといっても「磨き抜いた技術」だろう。相手に膝さえつかせれば、あとはこうしてああして、と相手の状態に合わせて連続して攻め続ける(責める、と言った方が適切か…(^0^)。) まさしく職人芸といえる。
 その技術を体得するために、どれだけ畳に這いつくばり、どれだけ相手の胴着に顔面をこすりつけたことだろう。わたしも高校時代、体育の必修で柔道を一年間習った。寝技の暑さ、むさ苦しさ、息苦しさを多少は味わった。浜田選手のこれまでの長き毎日がしのばれ、わたしは金メダルに快哉の声をあげた。

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左:浜田尚里 選手   右:角田夏実 選手

 浜田尚里選手以外にも日本女子柔道には 角田夏実(つのだなつみ)というとてもキュートな外見の寝技スペシャリストがいる。巴投げから寝技に移行し仕留める必勝パターンを持つ。あらゆる体勢から腕ひしぎ十字固めに移行し、テコの原理で相手の腕をきめてギブアップさせるのだ。角田の試合を何度も見たことがあるが、それは芸術である
 対戦相手は十分に警戒していながらも巴投げをくらい、あれよあれよと腕を絡め取られ痛みのあまりギブアップすることに……。オリンピックには惜しくも代表補欠となり出場はかなわなかった。
 こんな、地味ではあるが、だれにも負けない職人を輩出する日本柔道は、これからもきっと前進を続けることでしょう。
(追伸:わたしはボクシングも大好きです。それも、顔面への豪快なKOパンチより、地道に相手のボディを打ち続け、体力とパワーを奪っていく選手が好きだ。パワーやスピードのある花形選手ではない選手が、ボディ打ちで少しずつ活路を見いだす姿が好き……。そんなわたしの性向が柔道の寝技を好きにさせているのかもしません。)

 

その3 恐怖とたたかう

 トランポリンの森ひかる(22歳)。2019年の世界選手権の優勝者。直前の6月ワールドカップでも優勝し、日本勢として初めてのメダルの期待がかかっていた……。期待は重圧……。

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森ひかる選手

 4歳のとき、地元の東京都足立区で、スーパーの屋上遊園地に置かれていたトランポリンに魅了された。1回7分で200円。買い物に行く母親にせがんだ。ただ飛び跳ねているのが楽しく、夢中になった。高校はトランポリンのため石川県へ。東京の実家を離れ、母とアパート住まいで二人三脚の生活がいまも続いていたという。

 迎えた東京オリンピックは無残であった。
 予選、第2自由演技の2回目のジャンプの着地点が中心から大きく外れた。一度失ったバランスを取り戻せず4本目の着地後、上半身が前のめりになり、台の外にはみ出した。あっという間のまさかの幕切れだった。

 見ていて目を疑った。大きな大会で何度も勝ってきた実力者が、跳ぶたびに中心から外れていき、まるで初心者のようについには台の外へ。
 演技後「もう、頑張らなくていいんだと思うと安心した」と彼女は語った。演技とこの言葉に強い違和感を感じた私は彼女のそれ以外の言葉を探して読んだ。
 インタビューで、「1か月前から宙返りもジャンプも跳べない日々が続いた。この舞台に立てないと思って、先生に『やめたい』『選手交代をしたい』と言った日もあった」と語った。


 これは異常ですね。最上級の選手が、「ジャンプも跳べない日」が続くなんて。よほどの重圧で、身体と神経のコントロールが効かなくなっていたのでしょう。心はイジワルですね。いままでは簡単にできたことが、心の動きひとつで身体と神経がずれていき何もできなくなってしまう……。若干の22歳。怖かったでしょうね、跳べない身体が、跳べない自分が、そして跳べないままでオリンピックの舞台に立つことが。あまりに強いストレスだったことでしょう。
 いまさら当たり前の話ですが、心が身体を変えてしまうということですよね。
 30年も前に、サルの実験の話を読んだことがあります。サルの手足を縛って水中に浸すと胃潰瘍ができはじめ、30分ほどで(2時間だったかな?)で胃に血がにじみ出す、と。
 また、このブログでも書いたことがある「トム氏の実験」。食道に大変なやけどを負ったトム君は手術がうまくいかなかった。そのため胃袋に開けた穴から食物を送り込むしかなく、結局亡くなるまでの15年ものあいだ胃が露出し観察できる状態になってしまった。叱られて萎縮したとき、トムの胃の粘膜は白くなるのが観察された。怒りを感じたとき、トムの胃の粘膜は真っ赤に腫れ上がったという……。
 ことほどさようにストレスは -心は- 身体を変えてしまうのです。

 トランポリンは、10種類のジャンプを20秒程度の競技時間の中で繰り出す。ちょっとしたミスが致命的になる競技らしい。手足へのわずかな力のいれ具合-もしかしたら足指のちょっとした力加減ひとつで全部が狂ってしまうのでしょう。その繊細な神経が、重圧で根元から狂ってしまう……。


 おそらく森選手は yips(イップス になっていたのだと思います。

 yips(イップス症状)とは---プレッシャーにより極度に緊張を生じ、無意識に筋肉の硬化を起こし、思い通りのパフォーマンスを発揮できない症状---をいいます。簡単に言うと、今まで出来ていたことが急に出来なくなることです。プロゴルファー、プロ野球の投手などどんなスポーツ選手もなってしまう可能性があるといいます。
 わたしもこれにかかりました。卓球と野球が得意でしたが、30歳前後のある時から卓球でスマッシュだけが打てなくなったのです。全然違う方向にボールが飛んでいくのです。野球ではピッチャーでした。これもある時から、ボールが思ってもない方向に飛んでいくようになったのです。わたしの場合はなんのストレスもなかったのですが……。いまもスマッシュやピッチングのときの手指の感覚は戻っていません。
 森選手の大会1ヶ月前からの激変は、このイップスで説明がつくのではないでしょうか。辛い毎日だったでしょうね。だから「選手交代したい」と…。
 森選手はその後インスタグラムで述べています

「オリンピックで輝ける選手は技術だけでなく、全てが強い人。そんな人が輝ける場所だと感じました。私はここで輝けるほど、強さを持っていなかったし、弱さが出てしまいました。…
これはこれできっとこれからの人生に生きていくはず。絶対に生かしていく!私の人生はまだまだここから!💪」 と。

 素晴らしい若者ですね。トランポリンを続けるにしろ、引退するにせよ、これから始めるオリンピック後の人生を楽しんでください!!

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 私が生きている間、二度と夏のオリンピックの母国開催はないでしょう。この大会を心から楽しみにしてました。そして存分に観戦・堪能しました。選手の皆さんありがとう。
 オリンピックという夢の世界(夢への逃避)が終わり、私たちは現実に戻ってきました。いつ果てるとも知らぬコロナ渦という現実のなかに。
 オリンピックを楽しみに待っていたときのように、なにかに希望を抱きながらみんなでこの時代を乗り越えていきましょう。

 みなさんのオリンピックはいかがでしたか?
 そして、いまの楽しみや気晴らしは何ですか?