そして秋- エッセイなるもの
sinsingです。
夏から秋へ
わたしにとって夏というやつはやっかいな季節である。
若い頃は良い。まさに命とエネルギーの発露の時間。神であるかのような全能感すら襲ってくる。その結果としての強烈な体験と歓喜の玉手箱のような時間。血が沸き立つような瞬間の連続だった。何をしていなくても勝手に血が騒いでいた。そして誰かがかならず近くに居て、競うかのように力の横溢した時間を共有していた。
だが還暦を迎えようとしている今、夏はやっかいな季節である。
外に出てはいけない季節、あまりエネルギーを使ったり動いたりしてはいけない季節、屋内をいかに涼しく快適な状況におくか常に目を配る季節、ものをよく考えられない季節。そして何より、若き日の夏の、したたる汗の感触を寂寥感のなかで回想させられる季節。
そのてん、還暦の秋はいい。
庭仕事も運動もしやすい、本をじっくり読むのもいい、風も太陽も、どの時間の空気も心地よい。遠出もしたくなる…。
いろんなことが出来る気がしてしまう(実際はとりたてて何もしないで終わるのだが。そこが若き日の全能感と根本的に違う悲しさ)。
エッセイ -随筆なるもの
秋がきた……。 で、読書である。とりわけエッセイのこと。
エッセイの嚆矢(こうし)はフランスの哲学者モンテーニュの書いた『エセー』(仏: Les Essais もしくは『随想録』)であり、個人的意見や感想を自由な形式で述べた散文-随筆(エッセイ)-の最初である。モンテーニュがこの形式を発明したと言われている。
発明などと言う語句が付くのは、「エッセイ(essai)」は「試み」を意味するフランス語で、もともと「随想」や「随筆」といった意味はなく、モンテーニュの『エセー』というタイトル自身が「試論」という意味で、本人にとっても実験的な著作だったらしいからである。
ここ数年、エッセイを読むことにはまっている。
20歳代は難解な哲学書も無理をしながら読んだりしたが、あきらかに長編小説が楽しく、これこそが文学と思っていた。最も長いもので言えば「ジャン・クリストフ」、「チボー家の人々」、「人生劇場」、「青春の門」などがあったろうか。小説のみならず様々なジャンルのものも含め、むさぼるようにして本と向き合っていたように思う。
30代になると、軽い小説へと変わった(仕事上の専門書も多くなった)。
40代、ガクッと読書量が減り、手っ取り早くなにかの解決や知識を求めるhow toものやノンフィクションが中心に。(唯一、司馬遼太郎は読んでいた)
そしていま50代後半。
自分なりにまとめておきたい事象があるので歴史書は熟読しているが、楽しみとしてはもっぱらエッセイを読むだけになった。
作り物に嫌気がさしているからだろう。作家はフィクションによる創作を通して真実を描きたいのだろうが、私にとっては小説を読む時間が、作者の妄想の世界にひきずり込まれるだけの不毛な時間に思えてならなくなっているのだ。(小説こそが有益であり、気晴らしに最適さ、という御仁には申し訳ありません……)
それに引き替えエッセイは---書き手であるその人そのものがドッカと存在している。短い文章の中に、架空の人ではなくその人の自身の体験や感動、驚き、感想、その人のエッセンスが存在している。エッセイには書き手の事実があるのである。
・短い中で、深い知識や鋭い見識の披瀝もあり。
・短い中で、見事な構成をこらしたものを見つけることもある。思わず感嘆してしまうような上手さ。
・短い中で、本当にそんなことあったの?と驚かされるようなこともたびたび。
だからエッセイはやめられない。
そして何より、エッセイは、ときに私の過去や、私そのものにコミットする…。
そして何より、エッセイは、ときに私の過去や、私そのものにコミットする…。
7つがお気に入り……
いまのところ私のお気に入りのエッセイは、次の7者だろうか。
秋の夜長。
みなさんのお気に入りのエッセイストは誰ですか?
次回は、いま読んでいるエッセイから触発された自分の感情をゆっくりと書きとめてみたいと思います。
次回は、いま読んでいるエッセイから触発された自分の感情をゆっくりと書きとめてみたいと思います。
もちろんここまでの文章も、次回の文章も、「私のエッセイ」です。